たくさんの私
朝5時半の小雨の暗いバス停で、おばあさんに声をかけられました。
「〇〇町はどっちですかね?」
にこやかではありますが、傘もささず、寒いのに薄着にぞうりで‥。どうやら、ご近所のお知り合いの所へ行こうと家を出たものの、完全に迷ってしまったようです。ご自宅は多分かなり近いはずです。
私のバスはもうすぐ来ます。正直なところ、私の中に2つの思考が浮かんできました。
①「方向としてはあちらの方ですよ」とお伝えして、自力で帰宅していただく
② おまわりさんを呼んで送り届けてもらう。この場合、自分のバスには全く間に合わない。
‥②を選びました。やっぱり放っておけない。。 おまわりさんを呼んで、2人でアイアイ傘(笑)で待ちます。おばあさんのホンワカ昔話を伺いながら。終始にこやかで、優しいおばあさんでした。おまわりさんが来られ、付き添われて歩いて行きます。寒いのでお貸ししたジャケットの背中も、心なしか緊張が解けたように見えました。
会社に向う電車の中で思います。②が選択できて良かったと。①を選択したら、さぞかし後悔したと思います。①のオプションが頭に浮かんでしまっただけでも、どうかと思いますが。なぜ①が出てきたのか‥?
いつもの時間のいつものバスに乗れないだけ。仕事の時間が短くはなるものの、このケースでは明らかにおばあさんの方が大事。なのに①が頭に浮かぶ。短絡的にいつもと同じがいい、とか、変化を嫌う私がいるように思います。
①が浮かんでくるのも、また私。それはいかんと、夫として、父として、上司として、いつも模範的であるべきだと思う私。助けるのは当然と思う私。私は何人もいて脳内で矛盾‥。まあ、それはそれで、そんなもんかと思います。どれが本当の私かと問われたら、迷わず「全部」と答えるでしょう。
色々な私が矛盾しながら過ごしているのが私と言う事で。それでいい。
おばあさん、今頃あったかいお家でお茶でも啜ってると良いなと、明るくなった車窓をぼんやりと眺めました。